英賀御堂
15世紀の末、本願寺宗主(そうしゅ)の蓮如上人(れんにょしょうにん)という高僧が播磨に浄土真宗(じょうどしんしゅう)を広めるのによいところはないかとさがし、交通の便のよい英賀の城下町を布教の中心地にしました。また、代々の城主一族も信仰(しんこう)心が厚く布教の仕事を助けました。浄土真宗では播磨で最古の寺である播磨六坊が、英賀とその周辺に建ちました。次いで城下に、大寺院の英賀御堂(本徳寺)(ほんとくじ)をはじめ、多くの寺が建てられて栄えました。こうして浄土真宗は英賀を中心として、その周辺に広がりました。この真宗教団を英賀門徒(もんと)、あるいは英賀衆(しゅう)といいました。元亀元年(1570年)、今の大阪城のところにあった石山本願寺が信長と戦ったとき、本願寺宗主の顕如(けんにょ)上人が全国に呼びかけて、本願寺のために兵を募(つの)りました。この呼びかけに英賀城主三木通秋は、兵を送り、本願寺に味方をして信長と戦いました。このように、英賀は城下町、あるいは門前町、さらに海上交通の要地として栄えたのです。
天正8年、羽柴(豊臣)秀吉の英賀城攻略にあい、落城の後、秀吉の命令によって、英賀御堂は天正10年(1582年)に亀山に移り、英賀にあること九十年でありました。
英賀落城の後、秀吉の命令によって、英賀御堂は亀山に移りました。御堂に次いで数多くの寺も、それぞれ他の土地に移されていきました。六坊のうち城下にあった三か寺は法専坊(ほうせんぼう)が東延末(ひがしのぶすえ)へ、残りの二か寺は竜野に、また有名な四か道場の興宗寺(こうしゅうじ)は苫編(とまみ)に、妙善寺(みょうぜんじ)は加茂(かも)に、光照寺(こうしょうじ)は二つに分かれて亀山と飾磨の天神に、西徳寺(さいとくじ)は都倉(とくら)へと移りました。浄福寺(じょうふくじ)・真行寺(しんぎょうじ)・光養寺(こうようじ)・正龍寺(しょうりゅうじ)・法性寺(ほっしょうじ)なども英賀から亀山に移ってきた寺です。現在は明蓮寺(みょうれんじ)だけが英賀に残っています。
慶長7年(1602年)、京都の本願寺が東西両派(は)に分かれましたが、亀山に移った御堂は亀山本徳寺となり、最初は東本願寺に属していました。しかし、池田輝政のころ本徳寺と本山(ほんざん)の教如(きょうにょ)上人との対立から西本願寺派になり、領内の末寺(まつじ)もみなこれにならいました。後に、本多忠政(ほんだ ただまさ)が地内町(じないちょう)に東本願寺派の船場本徳寺を建立(こんりゅう)したので、ここに、領内の浄土真宗も東西本願寺派に分かれました。
亀山本徳寺の建物の大部分と親鸞聖人絵伝(しんらんしょうにんえでん)、またかつて英賀御堂にあったつり鐘などは、市指定の文化財となっています。 英賀御坊跡地は、現在地西側の歌野橋上流約100mの河川敷中央辺りの地にありました。これは、昭和13年(1938年)の日本製鐵広畑製鐵所の建設に伴う区画整理事業の夢前川付替工事によるものである。この工事に先立ち、昭和3年(1928年)に跡地に建立されていた「英賀本徳寺跡碑」は明蓮寺に移設されています。