第二篇 城廓
本丸 東37間 西39間2尺南52間 北31間1尺
二の丸 東51間1尺 西50間
南北共に34間3尺
位置は、 中広または中浜にあり、(播磨鑑)。
とあり、今尚中浜町には城内という地字が残っております。本丸、二の丸のあ った地点は中浜町内旧飾磨街道より南で、今の2丁目全域を城内と称します。 このほぼ中央、2丁目十七番地の川ノ上家の庭内に本丸の趾として1本の榎木 がそびえ、古来より榎塚と呼び本丸の趾として伝えてきました 城の外廓としては、西は夢前川(英賀記では西川と称す)、東は水尾川(英 賀記には三和川)、の中にあって、前は播磨灘に面し、田井ヶ浜の海を城内深 く引き入れ、水城英賀城之港と呼びました。北は英賀神社西北より東南に伸び て、英賀薬師裏手を東へ城内の北側を水尾川へ続く、幅100メートルにも及 ぶ広大な、人馬の膝を没する深い泥濘の沼沢湧水の池を外濠にして、天然の要 害を形成しておりました。英賀の北側に。なぜこんなに深い沼沢ができたので しょうか。
昔、水尾川の水とともに、大井川、済川の水も英賀の裏へ流れていたと思い ます。それは英賀西町2丁目明蓮寺の南西の地点に、済堂(すくいどう)、と いう地名があり、済川の水が海へ注いでいた地點とされて、飾磨郡誌には、 こは古への小塩川にして明暦の比までは、御立の横関より正南に、現時の清 水の辺に来り、西庄の東より井口なる済(すくひ)岳の麓を南に、英賀のすく ひ堂の所より海に注ぎしにて中頃は済川といひ、音読して才川とも称へし也。 風土記伊和の条に見えたる。 とあります。又それと同じ頃ではないかと思いますが、夢前川の流れも数条に 別れていたことが、考えられます。初めに申上げましたが、中国山系の雪彦山 を源に、瀬戸内海へ注ぐ夢前川の土砂が、永年堆積してできた沖積平野が、こ の英賀と広畑なのです。今、才村の西と東の境の地点、あれも夢前川の流れで あったとされております。
国鉄山陽線の南辺りで、広畑の東部を本流が流れ、改修の後に御水(ごみ) の清水が生れ、清水町が出来たようです。広畑天満宮の辺りから、清水を経て 南下、広畑製鉄所製鋼工場の辺りへ今も地下水の流れがあります。英賀の地内 では沖積平野の北部、英賀神社裏手を南東に流れて、夢前川の支流をなし、改 良されて湧水の沼沢が生れた、と見てよいでしょう。このようにしてできた天 然の要害を利用して土塁を築き、西から山科口、野中口(英賀神社西を北へ出 た辺り:写真 A)、岡芝ノ口(英賀神社東を北へ出た辺り:写真 B)一名木村口とも言う。北辻 口(宮町桑原古物商の北辺り)、河下口(飾磨農協支所辺り:写真 D)、大木口(英賀 郵便局北辺り)、井ノ上口(英賀薬師を北へ抜けた辺り:写真 C)、駒芝口(中浜町中 央を北へ抜けた辺り)、芝ノ口(中浜町東北部高町道への出口:写真 E)、広辻口(一 名飾磨口とも称して柏原酒店辺に英賀橋=今はなし=を東へ渡った地點)を城 門として通路となし、各城門を土塁をもって曲輪(くるわ)に結び、城の固め としておりました。又近郷領下には、山崎山(大鷹山)をはじめとして、13 に余る支城構居を以て、一族の武将を配して城の固めとしております。
ところが英賀城の址としては、一握りの土も、一塊の石ころも残されており ませんでした。現在本丸の址碑の建てられている地点は、城内のはづれで、内 濠の址であり、たまたま同地の寄贈があって、やっと碑の建立を見ました。又 本丸の址地、川ノ上家の庭には、同家戸主春男氏の好意により、址碑、英賀城 址えのき塚、の建立を見、水城英賀城之港田井ヶ浜址、英賀城外濠之址、大木 之濠址、の碑がそれぞれに建てられ、英賀城の昔を偲ぶことになりました。




