英賀神社

〒672-8080 姫路市飾磨区英賀宮町2丁目70
TEL:079-239-6921
FAX:079-239-8063

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カテゴリー3
英賀彦神・英賀姫神・英賀獅子

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第二篇 城廓

本丸 東37間 西39間2尺
南52間 北31間1尺
二の丸 東51間1尺 西50間
南北共に34間3尺
位置は、 中広または中浜にあり、(播磨鑑)。

とあり、今尚中浜町には城内という地字が残っております。本丸、二の丸のあ った地点は中浜町内旧飾磨街道より南で、今の2丁目全域を城内と称します。 このほぼ中央、2丁目十七番地の川ノ上家の庭内に本丸の趾として1本の榎木 がそびえ、古来より榎塚と呼び本丸の趾として伝えてきました
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A:野中之口趾

 城の外廓としては、西は夢前川(英賀記では西川と称す)、東は水尾川(英 賀記には三和川)、の中にあって、前は播磨灘に面し、田井ヶ浜の海を城内深 く引き入れ、水城英賀城之港と呼びました。北は英賀神社西北より東南に伸び て、英賀薬師裏手を東へ城内の北側を水尾川へ続く、幅100メートルにも及 ぶ広大な、人馬の膝を没する深い泥濘の沼沢湧水の池を外濠にして、天然の要 害を形成しておりました。英賀の北側に。なぜこんなに深い沼沢ができたので しょうか。
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B:岡芝口之趾

 昔、水尾川の水とともに、大井川、済川の水も英賀の裏へ流れていたと思い ます。それは英賀西町2丁目明蓮寺の南西の地点に、済堂(すくいどう)、と いう地名があり、済川の水が海へ注いでいた地點とされて、飾磨郡誌には、  こは古への小塩川にして明暦の比までは、御立の横関より正南に、現時の清 水の辺に来り、西庄の東より井口なる済(すくひ)岳の麓を南に、英賀のすく ひ堂の所より海に注ぎしにて中頃は済川といひ、音読して才川とも称へし也。 風土記伊和の条に見えたる。 とあります。又それと同じ頃ではないかと思いますが、夢前川の流れも数条に 別れていたことが、考えられます。初めに申上げましたが、中国山系の雪彦山 を源に、瀬戸内海へ注ぐ夢前川の土砂が、永年堆積してできた沖積平野が、こ の英賀と広畑なのです。今、才村の西と東の境の地点、あれも夢前川の流れで あったとされております。
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C:井ノ上口趾

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D:河下口之趾


 国鉄山陽線の南辺りで、広畑の東部を本流が流れ、改修の後に御水(ごみ) の清水が生れ、清水町が出来たようです。広畑天満宮の辺りから、清水を経て 南下、広畑製鉄所製鋼工場の辺りへ今も地下水の流れがあります。英賀の地内 では沖積平野の北部、英賀神社裏手を南東に流れて、夢前川の支流をなし、改 良されて湧水の沼沢が生れた、と見てよいでしょう。このようにしてできた天 然の要害を利用して土塁を築き、西から山科口、野中口(英賀神社西を北へ出 た辺り:写真 A)、岡芝ノ口(英賀神社東を北へ出た辺り:写真 B)一名木村口とも言う。北辻 口(宮町桑原古物商の北辺り)、河下口(飾磨農協支所辺り:写真 D)、大木口(英賀 郵便局北辺り)、井ノ上口(英賀薬師を北へ抜けた辺り:写真 C)、駒芝口(中浜町中 央を北へ抜けた辺り)、芝ノ口(中浜町東北部高町道への出口:写真 E)、広辻口(一 名飾磨口とも称して柏原酒店辺に英賀橋=今はなし=を東へ渡った地點)を城 門として通路となし、各城門を土塁をもって曲輪(くるわ)に結び、城の固め としておりました。又近郷領下には、山崎山(大鷹山)をはじめとして、13 に余る支城構居を以て、一族の武将を配して城の固めとしております。
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E:芝の口之趾


ところが英賀城の址としては、一握りの土も、一塊の石ころも残されており ませんでした。現在本丸の址碑の建てられている地点は、城内のはづれで、内 濠の址であり、たまたま同地の寄贈があって、やっと碑の建立を見ました。又 本丸の址地、川ノ上家の庭には、同家戸主春男氏の好意により、址碑、英賀城 址えのき塚、の建立を見、水城英賀城之港田井ヶ浜址、英賀城外濠之址、大木 之濠址、の碑がそれぞれに建てられ、英賀城の昔を偲ぶことになりました。