「第四篇 赤松時代」
赤松氏が播磨で旗挙げをしたのは、元弘3年(1333)で、後醍醐天皇が隠岐の島から還られた時、則村が義兵を挙げ、東上の途次姫山の地に縄張を設けて、小寺氏にこれを守らせたのが最初であります。「2月赤松則村、義兵を師いて東上の途中、姫山に縄張を定めて、小寺頼季をして守らしめた。」
と姫路城史にあります。
則村は赤穂郡赤松庄の、白旗城の第七世を継いだのでありますが、この人には五男あり、嫡子範資は、攝津の尼崎に城を築いて城主となりました。後に七条流赤松と申しますが、この範資にも五男あり、惣領光範の子が後に、嘉吉の乱を起した満祐であります。
さて則村の二男貞範は、正平元年(1346)姫山に城を築き、姫路城最初の城主となりました。
則村の三男則祐は、初め僧籍に入りましたのでしょうか、妙善と号して権律師に任ぜられております。後白旗城を継ぎ、八世の城主となっております。
その子九世義則に養われて、白旗城主の十世を継いだのが、さきに申上げました光範の子、満祐であります。
その頃、満祐の義理の弟、祐尚は一時河合城主となり、後英賀の城主となっております。
嘉吉元年六月、満祐反逆して、木之山の城に立籠りましたが、討手の山名と細川に敗れて、自殺致しました。この木之山の戦で赤松の一族が亡び、僅かに満祐の子教祐と、従弟則尚(祐尚の子)は伊勢の国へ落行、後赤松再興の兵を挙げ、播磨へ攻め登って来ましたが、戦運拙なく又々、山名に敗れております。
その後播磨の地は、応仁の頃まで山名の支配のもとに置かれたようです。