英賀神社

〒672-8080 姫路市飾磨区英賀宮町2丁目70
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英賀彦神・英賀姫神・英賀獅子

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「第五篇 三木時代」

満祐が京師に於いて、反逆致しましたのが嘉吉元6月で、英賀の城主祐尚の死は、それより一月早い5月になっております。そのとき通近、恋浜の城から移ってきて、英賀の城主となりました。嘉吉元年(1441)その後十世を継ぐべき安明まで、約150年を三木の時代が続きました。

 一世通近、嘉吉2年7月7日卒して、二世近重は、それより一年早い9月に木之山城に満祐と共に死に、三世通重は木之山の戦後まもなく隠棲、嘉吉3年正月通武、先づ三樹祓の儀式を行い、英賀城四世を家督致しました。この人は赤松満祐の女千代菊を母にしており、その性格は祖父譲りと申しましょうか、激しい行動的な城主であったようです。山名の勧降を拒絶しましたが、其の戦に敗け、一時山名に降っておりますが、幾何もなく赤松と気脈を通じて城廓篇でも申上げましたが、英賀城を建て替え、周囲を固めてその名も岩繁城と改め、播磨の三大城の一つに仕上げたのも、この通武であります。三木時代に於ける名将の中の名将でありました。

 その子五世城主通安もまた、始めは山名に従いましたが、後赤松の旗下に戻り、将軍義尚公の覚えもよく、数々の軍功をたてております。
 六世の城主通規は、市庭家を創始すると共に、三人の弟をそれぞれ分家させ、三木氏一族の源流四本家を創設致しております。又深く仏門に帰依して、浄土真宗布教活動に大変力を注ぎました。即ち文明、明応を経て永正の頃には、英賀御堂の建立となりましたが、城主一族が大きく貢献したようです。
 七世通秀、八世通明を経て、九世通秋。母は赤松次郎左京太夫晴政の女富雄と申します。又別所長治とは従兄の間柄でもあります。又石山本願寺が信長と戦いました時、将兵と食糧を送り、援けております。別所長治の三木城へも、多数の援軍と食糧を送り、支援しております。

 天正8年正月に始りました秀吉の英賀城攻めの戦は、城内より内通者が出て、秀吉の軍勢を城内へ誘導したことにより、実に悲惨極りない敗戦となりました。英城記では天正8年正月より、一ヶ月余をかけて領下の諸構が抜かれ、2月10日より本城攻め、13日落城。この戦いで三木家の死者2,700余人、秀吉側700余人を記しております。実に悲惨きわまりない、大戦であったようです。

 これにつきまして姫路城史では、かゝる大戦なれば、少くとも秀吉関係の、史書に記されてある筈ではあるが、僅かに総見記に4月24日、宇野氏を攻めることを書き、「この競をもって、直に河賀へ取掛候処に、芸州毛利方へ人質を出し置候者ども、舟に取乗立退候間、一戦に及ばず、河賀寺内に打入り云々」、とあるのみとしております。文中河賀は阿賀のことであり、「寺内に打入り」は英賀御堂のことで、秀吉が入った記録が英城記に見られます。
尚姫路城史に豊鑑、太閤記、豊臣秀吉譜等にも、何らの記載がないこと。その外月日に若干の相違ある点を挙げて、英城記の記録を強く否定しております。また三木氏のために、誇張粉飾若しくは虚構して書いたともしております。
 
 筆著思うに、古来より戦記には勝者の記録と、敗者の記録には大きな相違のあることを、第二次世界大戦により充分学び得たのであります。英賀城の戦につきましては、なる程秀吉が、戦には勝利を治めております。しかし、敵の将を逃したことは、秀吉一生の不覚というべきでしょう。本来なれば秀吉は、信長から「たわけ者、何故追わぬ」と一喝喰わされるところではないでしょうか。信長は、「敵将は皆殺せ」、と命じております。(読売新聞「播磨物語」司馬遼太郎・270)そうしたところから秀吉は、信長に詳しい報告もせず記録を残すことを嫌ったと考えることは、いけないでしょうか。

 81歳という老齢で、総頁600頁に余る大冊を篇まれました薬師入道道定が、どんな人物であったかは別として、其の努力は買われて当然と思います。また地元に住む一人として、地元に残る記録を信じ大切にしてゆきたいのです。そうすることが我々の努めでもありましょう。