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西木文庫

満祐が京師に於いて、反逆致しましたのが嘉吉元6月で、英賀の城主祐尚の死は、それより一月早い5月になっております。そのとき通近、恋浜の城から移ってきて、英賀の城主となりました。嘉吉元年(1441)その後十世を継ぐべき安明まで、約150年を三木の時代が続きました。

一世通近、嘉吉2年7月7日卒して、二世近重は、それより一年早い9月に木之山城に満祐と共に死に、三世通重は木之山の戦後まもなく隠棲、嘉吉3年正月通武、先づ三樹祓の儀式を行い、英賀城四世を家督致しました。この人は赤松満祐の女千代菊を母にしており、その性格は祖父譲りと申しましょうか、激しい行動的な城主であったようです。山名の勧降を拒絶しましたが、其の戦に敗け、一時山名に降っておりますが、幾何もなく赤松と気脈を通じて城廓篇でも申上げましたが、英賀城を建て替え、周囲を固めてその名も岩繁城と改め、播磨の三大城の一つに仕上げたのも、この通武であります。三木時代に於ける名将の中の名将でありました。

その子五世城主通安もまた、始めは山名に従いましたが、後赤松の旗下に戻り、将軍義尚公の覚えもよく、数々の軍功をたてております。
六世の城主通規は、市庭家を創始すると共に、三人の弟をそれぞれ分家させ、三木氏一族の源流四本家を創設致しております。又深く仏門に帰依して、浄土真宗布教活動に大変力を注ぎました。即ち文明、明応を経て永正の頃には、英賀御堂の建立となりましたが、城主一族が大きく貢献したようです。
七世通秀、八世通明を経て、九世通秋。母は赤松次郎左京太夫晴政の女富雄と申します。又別所長治とは従兄の間柄でもあります。又石山本願寺が信長と戦いました時、将兵と食糧を送り、援けております。別所長治の三木城へも、多数の援軍と食糧を送り、支援しております。

天正8年正月に始りました秀吉の英賀城攻めの戦は、城内より内通者が出て、秀吉の軍勢を城内へ誘導したことにより、実に悲惨極りない敗戦となりました。英城記では天正8年正月より、一ヶ月余をかけて領下の諸構が抜かれ、2月10日より本城攻め、13日落城。この戦いで三木家の死者2,700余人、秀吉側700余人を記しております。実に悲惨きわまりない、大戦であったようです。

これにつきまして姫路城史では、かゝる大戦なれば、少くとも秀吉関係の、史書に記されてある筈ではあるが、僅かに総見記に4月24日、宇野氏を攻めることを書き、「この競をもって、直に河賀へ取掛候処に、芸州毛利方へ人質を出し置候者ども、舟に取乗立退候間、一戦に及ばず、河賀寺内に打入り云々」、とあるのみとしております。文中河賀は阿賀のことであり、「寺内に打入り」は英賀御堂のことで、秀吉が入った記録が英城記に見られます。
尚姫路城史に豊鑑、太閤記、豊臣秀吉譜等にも、何らの記載がないこと。その外月日に若干の相違ある点を挙げて、英城記の記録を強く否定しております。また三木氏のために、誇張粉飾若しくは虚構して書いたともしております。

筆著思うに、古来より戦記には勝者の記録と、敗者の記録には大きな相違のあることを、第二次世界大戦により充分学び得たのであります。英賀城の戦につきましては、なる程秀吉が、戦には勝利を治めております。しかし、敵の将を逃したことは、秀吉一生の不覚というべきでしょう。本来なれば秀吉は、信長から「たわけ者、何故追わぬ」と一喝喰わされるところではないでしょうか。信長は、「敵将は皆殺せ」、と命じております。(読売新聞「播磨物語」司馬遼太郎・270)そうしたところから秀吉は、信長に詳しい報告もせず記録を残すことを嫌ったと考えることは、いけないでしょうか。

81歳という老齢で、総頁600頁に余る大冊を篇まれました薬師入道道定が、どんな人物であったかは別として、其の努力は買われて当然と思います。また地元に住む一人として、地元に残る記録を信じ大切にしてゆきたいのです。そうすることが我々の努めでもありましょう。

赤松氏が播磨で旗挙げをしたのは、元弘3年(1333)で、後醍醐天皇が隠岐の島から還られた時、則村が義兵を挙げ、東上の途次姫山の地に縄張を設けて、小寺氏にこれを守らせたのが最初であります。
「2月赤松則村、義兵を師いて東上の途中、姫山に縄張を定めて、小寺頼季をして守らしめた。」
と姫路城史にあります。

則村は赤穂郡赤松庄の、白旗城の第七世を継いだのでありますが、この人には五男あり、嫡子範資は、攝津の尼崎に城を築いて城主となりました。後に七条流赤松と申しますが、この範資にも五男あり、惣領光範の子が後に、嘉吉の乱を起した満祐であります。

さて則村の二男貞範は、正平元年(1346)姫山に城を築き、姫路城最初の城主となりました。
則村の三男則祐は、初め僧籍に入りましたのでしょうか、妙善と号して権律師に任ぜられております。後白旗城を継ぎ、八世の城主となっております。
その子九世義則に養われて、白旗城主の十世を継いだのが、さきに申上げました光範の子、満祐であります。
その頃、満祐の義理の弟、祐尚は一時河合城主となり、後英賀の城主となっております。
嘉吉元年六月、満祐反逆して、木之山の城に立籠りましたが、討手の山名と細川に敗れて、自殺致しました。この木之山の戦で赤松の一族が亡び、僅かに満祐の子教祐と、従弟則尚(祐尚の子)は伊勢の国へ落行、後赤松再興の兵を挙げ、播磨へ攻め登って来ましたが、戦運拙なく又々、山名に敗れております。
その後播磨の地は、応仁の頃まで山名の支配のもとに置かれたようです。

英賀に於ける吉川時代のことにつきましては、あまり詳しい記録はないようです。

元暦、文治(1185)の頃は吉川家の守護するところであった、ぐらいのことしか書かれていないようです。
少し無責任ないゝ方かも知れませんが、播城誌がどこにあるのか、見たこともありませんが、古城主は吉川家守之(播城誌)と英賀保解村誌72頁「英賀城の記」に書かれているだけ。

春日神社記(播磨鑑)では吉川次郎、文治2年3月7日勧請す。とのみある。

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文治2年2月鎮座とあるのは、おそらく吉川氏が春日の神を勧請した時のことであろう。

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西木文庫とは、英賀神社獅子舞保存会元会長で、英賀西町の西木馨様の著書「英賀保史跡遍歴」(昭和47年3月15日発行)、「英賀城史」(昭和51年5月1日発行)、「英賀神社獅子舞の歴史」(平成6年11月23日刊)/3点とも駟路の会【サンダ印刷(株)】発行を著者御家族の了解のもと当ホームページで復刻したものです。

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